- 最後に悪が勝つパターン
- VRで快適に生きるのと、リアルで過酷に生きるの、どちらを選ぶか。
「幸せとは、人間が自分自身でどう感じるか決めるもの。」
もしこの定義が正しいとすれば、バーチャルリアリティの世界で、かつ、本人がVRであることを認識しない前提であれば、VRの世界での幸せを満喫することがその人にとっての幸せとなるだろう。
第三者がそうしたVRでの幸福をいかに悲惨なものと捉えようと、本人はその第三者の評価すら全く気にならず、と言うよりも本人の生きている世界はVRであり、本人はVRであることを認識していないのだから。
「瞳を閉じれば世界が消える」というカントの言葉の通り。
テクノロジーやAiの能力が上がり、人間はコンピューターに処理される側に回る。こういった社会を恐ろしいと感じる風潮は現在強まってきている。
しかしこうしたテクノロジーの進化の前に、各人間はそれほど自由に考え、自由に行動できていたのか。
進化したAIに支持されてしまう人間が描写されているが、今までも自分より高い知能の人間に支持され、ほとんど自分の自由意志を奪われて生活していた人間も実は多いのではなかろうか。
つい最近までの日本のサラリーマン社会も、多くの場合に「出世競争「と言うゲームの中では、自分の上司や権力を持ったキーパーソンに実質的に逆らうことができないまま行動を余儀なくされてきたのではないか。
このように考えると、進化したAIによって支配されることをそれほど怖がる必要は無いのかもしれない。なぜなら、理不尽な上司や権力者よりも、数百倍知能が高いAIの出す指示の方が、合理性と言う観点からはより受け入れやすいとも言えるから。