記録の力 / The power of Recording

Taking notes, reviewing them to improve productivity is fun. Will see how I can improve myself by recording all sorts of things.

責任と判断

 

 

  • 思考の欠如の危険性

 

考えないと、例えばある規則・ルール・命令がある場合に、単に「ルールだから」という理由だけで盲目的にその価値観に従ってしまう。その価値観の是非について論ずることなく従うのは、命令されていると言うよりはその価値観を支持していることになる。

 

 

  • 思考→自己との対話

 

考えると言うのはそのルールの是非について考えると言うこともあるが、より具体的には、そのルールが自分の価値観と合っているのかどうか。自分の価値観とルールが合っていない場合には従うべきかどうかを自分で判断する。それが考えると言うこと。

 

その意味で自己との会話が必要と説いている。

 

興味深いのは、他人とは意見の相違があっても距離を取れはよいが、自分自身の考え方と自分自身の行動に矛盾が生じる場合には、その矛盾を抱え込むことになる。すなわち自分と距離を取る事はできないと言う点だ。

 

とは言え実際には自己矛盾を孕んだ発言と行動を行っている人間は多いようにも思える。

自分自身の考え方と自分自身の行動に矛盾が生ずる場合には、その矛盾を抱え込むことになる。すなわち自分と距離を取る事はできないと言う点だ。

 

とは言え実際には自己矛盾を孕んだ発言と行動を行っている人間は多いようにも思える。

 

その発言が「解離性同一性障害」であり、似て非なるものに「認知的不協和」と言う概念があるのだろう。

 

  • 吟味されない道徳とは

 

著者は、道徳と呼ばれるものも一切不変のものではなく、その時代において多くの人間が当然のように所の前提としている概念に過ぎず、何らかのきっかけにより一定にして道徳の概念そのものも入れ代われ得ると指摘している。

 

人々が道徳の中身について吟味しない場合にはこうしたことが簡単に起こり得るのが恐ろしい。

 

実際には社会に広く流布する道徳と言う概念が、一夜にしてまるっきり変わってしまうと言う出来事は、第二次世界大戦時のドイツヒトラー政権下で起こったような稀な事象とは思うが、人の価値観の転換と言うレベルで見ると、日常的に起こっていると言わざるを得ない。

 

 

価値観の転換と言うと大げさだが、全人格的な価値観と言うよりも、個別事象に対する考え方と言う意味では、まさに日常的にコロコロと変わってしまっているのが現状ではないか。

 

むしろ考え方に柔軟性を持てと言われるばめんもあり、そのような場合にはこの考えの変更が是とされている側面もある。

 

 

  • 「空気の研究」と同じ筋

 

自分自身の考え方に固執する事は視野を狭めることにつながりかねない。それ故他者の意見も取り入れ、その上で自分の考え方を洗練させていくべきだろう。

 

他方他者の意見を取り入れるときに、吟味することなくそのまま丸呑みしてしまうと、結局自分の考えと言うものは確立されない。

 

他者の意見を取り入れるたびに自己の意見となってしまい、実際には自分の意見ではないにもかかわらず、自分で考えた結果この価値観を支持しているのだ」と言う錯覚に陥る。

 

恐ろしいのはこの錯覚に陥っていると言う事態に気づけないことだ。

 

この罠は「空気の研究」において詳細に議論されていたことと全く同一。