記録の力 / The power of Recording

Taking notes and reviewing them to enhance productivity can be enjoyable. I'll explore how I can elevate my skills by documenting various aspects of my life.

アヒルと鴨のコインロッカー

 

 

「人生の主役は自分だとつい思いがち。しかし第三者の人生において自分は脇役に過ぎない。」

 

小説を読んでいて一番印象に残った文脈は上記の通り。本の主題がここに隠されているとは到底思えないが、印象的だったので上記について考えてみる。

 

  • 主役と脇役の錯覚と弊害

 

当然と言えば当然だが、ついつい自分が関わる人生においては自分自身が主役と錯覚しがちだ。卑屈になる必要もなく、行き過ぎた謙遜は無意味だと思うが、無意識でいると自分が主役だと勘違いする傾向が強い。

 

主役とは何か:ストーリーの中で主要人物の役を担うもの。

 

脇役であるにもかかわらず主役と勘違いすると、ストーリーの中で周囲に悪影響を及ぼすことになる。脇役が、セリフも周囲の状況も自分が置かれた状況も理解しないまま、好きなように振る舞うことで、本来向かうべきストーリーの結末にたどり着かなくなる。

 

ストーリーであれば破滅的であり、予定された結末は得られない。

 

  • 現実世界ではどうか

 

現実世界では誰が主役か誰が脇役かなど明確に決められているものではない。

 

本人の視点からすると、自分の人生は全て自分が主役であり、第三者から見るとその人の人生は所詮人ごと。個々人が自分自身を主役だと勘違いしているのが現実だ。逆に他人の人生にそれほど興味もなく、他者への興味や関与の程度はどんどん低くなっているのが現状だろう。

 

この「第三者への関与度合いが薄くなっている」という意味において、脇役(第三者)が、主役(本人)の人生にずかずかと入っていく場面は現代においては少なくなってきているのかもしれない。

 

とはいえ、例えば会社の中の人間模様を見ると、第三者への関与場面は多いようにも感じる。

 

例えばチームで仕事をしているときに上司が部下に指示を出す場合。完全に仕事と割り切った指示であればそうでもないかもしれないが、時に感情的になり、時に育成という名を借りて余計なことを言ったりする。

 

こうしたことを考えると、やはり人と人との関わり合いは完全に希薄化されたわけではなく、一定程度残っていると思われる。そしてこの人との関わり合いが発生する限り、主役と脇役の混同はいつでも起こり得るだろう。

 

 

  • 謙虚か親身かお節介か

 

他人と会話し、その他人の人生について何かを話すとき、例えばコメントをするとき、意見を求められたとき、相談されたときに、一定程度「自分は脇役だ」と自覚した上で接することで主役と脇役の錯覚を起こす事は回避できそうだ。

 

そう考えると、脇役と認識して接するというのは、所詮人が考えている事はその人でないと分からないという前提で他人と接することであり、ある意味謙虚な姿勢と言えそうだ。

 

他方対極にある考え方として、他人のことをあたかも自分事のように考え、自分の視点で他人に対して会話をする、相談に乗ってあげる、意見を伝えるといった行動をとる場合には、1面「親身になっている」とも言えそうだし、他方「主役と脇役を混同している」、「行き過ぎたお節介」と酷評されかねない。

 

 

  • ではどうすればよいか

 

どちらが正解と言うこともなく、時と場合に応じてどちらのアプローチがベターかと言う程度問題に過ぎないようにも思える。

 

時と場合の見極めを洗練させていくこと。主役なのか、脇役なのか。聞き役なのか、リード役なのか。主役と脇役を分ける分水嶺は何か。こうした思考を無意識に行う。